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神話や昔話、伝説、時には見た夢を、場に描き出す。
それは、現実と虚構とを繋ぎ、狭間にあるなにかを掘り起こし留めること。
人から人へ伝わっていった物語も時々みる夢も、曖昧な記憶から形を作り出し変容する点が似ている。伝承者や地域によって話の結び目が真逆だったり、話が後付けで辻褄が合っていなかったり。思い出していく内に現実に起こった事との境目がなくなることもあるし、敢えて事実を交えることもある。彼らは自由に現実とを行き来することすらできるのだ。なんて自由なんだろう。
果たして虚構と言い切れるものなのか。
「私たちには、時間という壁が消えて奇跡が現れる神聖な場所が必要だ。今朝の新聞になにが載っていたか、友達がだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことを一切忘れるような瞬間、ないしは一日のうちのひとときがなくてはならない。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所だ。これは創造的な孵化場だ。はじめは何も起こりそうにもないが、もし自分の聖なる場所をもっていてそれを使うなら、いつか何かが起こるだろう。人は整地を創り出すことによって、その土地を自分のものにする。つまり、自分の住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えるのだ。」
神話学者 ジョセフ・キャンベル
カップや布団、洗濯バサミ。あれこれ組んで見えるものを探す。山、のような、裸婦、のような。そこから紡ぎだして物語を描く。縄を編み、布を当てて、ふるいにかけるように描く。
“狭間にあるなにか”が人の記憶の本質であるかはまだわからないが、“なにか”があることは確かだ。
2016.8.10
生井沙織
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